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なぜクソリプツイッタラーはふるふわ小金持ちの心得ゆる十則に噛みついたのか

 

先日こんなツイートをしたところいくつかクソリプをいただいた。

要約すると、

「そんなヌルいことやってたんじゃAmazonやGoogleに勝てねえぞ!」

という趣旨の指摘だ。

 

なぜ同じ土俵で戦いたがるのか

普通に考えてAmazonやGoogleに勝てるわけないだろ。

というか別に勝つ必要すらない。

彼らはアホなのだろう。

最初はシンプルにそう思った。

 

ちなみに僕が大学院時代に研究していた分野はGoogleとダダ被りだったのだが、

だいたいのアイデアは既にGoogleに手をつけられていて、テーマ選定にはそれなりに苦労した記憶がある。

教授や博士課程の先輩に「でも、Googleでもうやってるんじゃないの?」という、どこかでみたことある指摘を何度うけただろうか。

 

人生の目的は、圧倒的に個人が幸せになることであって、大きな組織や権力を打ち負かすことではない。

そのためには、どうやったらGoogleやAmazonに勝てるかではなく、いかにこの巨大な波をのるかを考えた方がひとひとりの人生はよっぽど好転する。

極論いえば、国や会社がどうなろうと知ったこっちゃないし、自分と自分に関わる人たちが幸せであればそんなものどうでもいい。

にもかかわらず、どういう目的で絶対に勝てないであろうGoogleやAmazonとまともに挑もうとするのか。

 

日本の教育は本当に洗脳かもしれない

実はよく考えてみると、これは単に彼らクソリプツイッタラーがアホさが問題ではなく、根本的な問題をはらんでいるのだ。

 

そう、教育である。

 

先日読んだホリエモンの本にこんな一節を思い出した。

彼らは結局、出家と称して世俗から離れた後も、「親のようなもの」を求め、「学校や会社のようなシステム」を欲し続けていたのだ。これらの欲求の根っこにあるのは、「目上の人に認められるのはいいことだ」「与えられた環境で我慢(修行)し、上の位をめざすべきだ」といった、誰もが抱えるごくありふれた思い込み――そう、「学校で教えられた常識」である。(『すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論』より)

もともと日本の教育の目的は、国家に従順な軍人を育てることであり、このインターネットによって自由がもたらされようとしてる今でもそれは変わっていない。 

僕らは教育によりいつの間にか「常識」を刷り込まれ、既に決められたルールでしか物事を考えられなくなっているのかもしれない。

出世、結婚、マイホームなど幸せモデルに固執するのはただの承認欲求ではなくこうした背景があるのではないだろうか。

 

メタゲームが下手なのは教育のせい?

GoogleやAmazonとは違うフィールドや戦い方で勝負しよう、という発想はいわばメタゲームの考え方だ。

www.onclog.com

このエントリは他に比べ、そこそこの反響があったのだが、それはおそらく多くの人にこの発想がなかったからだろう。

まともに学校で勉強して、まともに会社で働いてるだけでは、「そもそも戦う場所ここで大丈夫?」といった視点には永遠に気づくことができない。

かつて哲学者であるソクラテスが「無知の知」という言葉を残したように、世界に変化をもたらすGoogleやAmazonといった大きな波に比べれば、僕らは取るに足らない小さな存在だと気づくことがまずは大切なのかもしれない。

 

参考文献