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幸福の「資本」論で読み解くナンパ師と恋愛工学生の違い

つい先日、橘玲氏の新刊『幸福の「資本」論』を読んでいて、こんな一節を目にした。

ジェイコブズは古今東西の道徳律を調べ、人類のつくり出した2種類の相異なるモラル体系を抽出します。これが市場の倫理と統治の倫理ですが、かんたんにいえば権力ゲーム(武士道)とお金儲けゲーム(商人道)のルールです。

権力ゲームは戦国時代や三国志の世界で、その目的は、集団のなかで一番になること(国盗り)と、異なる集団のなかで自分の集団を一番にすること(天下平定)です。もちろんみんなが勝者になれるわけではありませんから、集団のなかでどのように振る舞うかもこのゲームでは重要になります。この権力ゲームの行なわれるフィールドが政治空間です。

それに対してお金儲けゲームの目的は、与えられた条件のなかでもっとも効率的に貨幣を増やすことです。権力ゲームは勝者総取りが原則ですが、お金儲けゲームはなにがなんでも一番を目指す必要はありません。べつに世界一のお金持ちになれなくても、ほぼほぼ裕福な暮らしができればみんなハッピーなのです。 このゲームのフィールドが貨幣空間になります。

 

そう、これはナンパ師と恋愛工学生の違いをもののきれいに説明している。 

さらに橘氏はこう続ける。

政治空間には愛情や友情だけではなく、嫉妬や憎悪、裏切りや復讐などのどろどろとした感情が渦巻いています。恋愛から戦争まで、人間ドラマのすべては政治空間で繰り広げられるのです。

それに対して貨幣空間はお金を介したコミュニケーションなので、ものすごくフラットです。いつも買い物をする八百屋のおじさんに愛情や憎悪を感じるひとはいません。通販でモノを買う場合は、相手が何者かなんて考えもしないでしょう。この冷淡さがあるからこそ、貨幣空間は無限に広がっていけるのです。

ナンパ師は権力ゲームに参加し、政治空間を形成する。
いかに短時間、低コストで誰もが羨むようなモデルやアイドルなどといった肩書きの美女を抱けるか、さらにはそれによって自分のオスとしての高い地位を示すことができるかに全身全霊を注ぐ。必要とあれば他人から奪ってでも美女を抱こうとする。一番になることがナンパで取り組むべき命題であり、それこそが本能によるものだからだ。

 

一方で恋愛工学生は金儲けゲームに参加し、貨幣空間を形成する。「ひとまず童貞を卒業したい」、「彼女や結婚相手がほしい」、「ナンパできるようになりたい」など自分のゴールを達成さえすればOKなので、それぞれ行動基準に従って恋愛し、利害が一致したときのみ協力する。自分がデート打診して断られた女を誰かにパスしたり、恋愛市場の歪みをみつければそれをシェアしたりして、それぞれのゴールを達成しようとする。みんなが幸福になることが彼らが取り組むべき命題だからだ。

 

要するにナンパ師と恋愛工学生でなぜか話が噛み合わないのは、やってることは同じようにみえても参加しているゲームがまったく異なるからだったのだ。

誤解のないようにいっておくが、別にどちらが良いとか悪いとかそういうことを言いたいのではない。

なにを重視するかが違うだけである。

 

 

ちなみに"幸福"側のゴールを設定すると、恋愛をどう位置づければいいかがみえてくる。

橘氏いわく、幸福な人生の条件とは①自由、②自己実現、③共同体=絆の3つであり、それに対応する①金融資本、②人的資本、そして③社会資本の3つのインフラをどのくらい築けるかが幸福な人生を左右する。

そして、その3つの資本の最適戦略は以下のようになる。

①金融資産は分散投資する。
②人的資本は好きなことに集中投資する。
③社会資本は小さな愛情空間と大きな貨幣空間に分散する。

ひらたくいえば、恋愛は社会資本のうち政治(愛情)空間を満たすものである。

政治空間を大きくしすぎると、たいていの場合そのしがらみに囚われ、幸福感を毀損する。

稼げたりモテたりするようになると、よく金や女を奪われたり足を引っ張られるのは、政治空間が紛れもなく政治空間が大きすぎるからである。

つまり、自分を認めてくれる政治(愛情)空間は小さくていい。

短時間で美女を抱けるスゴさを多くの人に誇示しなくとも、数少ない心許せるパートナーで愛情空間を満たし、残りは利害が一致すれば協力する貨幣空間で社会資本を満たしてしまえばいい。

僕らは本能を突き詰めても幸福になれるようにデザインされてないのだから。

 

参考文献